某アートフェアに先日いってきたのですが、そこで感じたこと考えたことをメモ的に投稿しておきます。
作品としては圧倒的に絵画が主で、フォーマットって全然更新されていないんだなぁということを目の当たりにした。
そして、ずっと前に見た草間彌生の映画の1シーン、“ハプニングをやったって牢屋に入れられちゃうんだもの”というようなことを言って、絵を描いているみたいなシーン(うろ覚え)を思い出したりもした。
美大を出てるというと、絵を描いているとか絵が好きとかって思われてしまうんだけど、その度に美術大学=絵を描く大学じゃないんだけどなぁとモヤモヤし続けてきたんですが、アートフェアでこんなに絵なんだから、そりゃそう認識されてるのが自然だよなと今更ながら思いました。
何割かの人は、オフィスやらに「飾る」ものとして絵画を買ってるそうで、それはそれとしていいんだけれども、「飾る」という行為、「装飾品」という立場で回収されてしまっても、やりとりが成立した形になることにモヤモヤがなくはない。
この飾る行為などの消費の構造を要素分解して捉えないと、わたしが感じてるズレみたいなものは埋まらない気もした。
わたしはアーティストとして人様に紹介していただくことが度々あるけれど、
いわゆるアート“業界”関係者として動いているわけではなく、売り手でも買い手でもないのだけれど、前述のモヤモヤたち=ある種の敗北感、しかももう何度も擦られた敗北感をかんじながら、会場を後にした。
メイン会場みたいな所ではない場所で、いくつかのインスタレーションが展示されていて、インスタレーションはメイン所に置けないポジションなのかなとか、悪い意味でちょっと疎外感として捉えかけてしまっていた。
そのインスタレーションたちは飲食店の集まるビルなどにあって、アートを見に来たのではないだろう人たちにも見られていて、別に何に回収されるわけでもないのだけど、その作品と出会った人の何かをきっと揺さぶっていて、この作品の展示ここでよかったと勝手に安心した。
あと、これはアートフェアとは別のことだけど、
さきほど言った敗北感の1つに、アートとかどうでもいいだろう人たちがなんだか空虚にアートを愛でて使う“アートですね〜!”、“◯◯がアートで素敵♥”などがある。
そういった発言には度々勝手に傷心してきた。
が、最近免疫がだいぶついたし、そういった人たちとはどうすればズレが縮まるのかという術みたいなのを蓄える方にここ数年、意識が行っている。
もうちょっと踏み込んで書かないと伝わらない問題がたくさん含まれていると思うけど、丁寧に書くよりは手早くアウトプットする方が大事だと思ったので。